昭和四十八年六月十七日 御理解第六十四節
「此方は参って尋ねるところがなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ。」
信心をして徳を受けてと、信心して徳を受けるという、どういう信心をさせて頂いたら徳を受けるかと云うことを合楽では日々教えて頂いておると思うのです。
だから教えて頂いていることが本当に血に肉になって初めてお徳と云うことになるのですから、いわゆる生き生きとしてそれが繰り返されて行く内にこれがお徳だと、これが力だと云うような事になって、だからお徳を受けると云うことがそのまま身凌ぎが出来ると云うことだと思う。
そこで此方は参って尋ねる所がなかった。教祖様でも只御信心はお好きであった。どこのお寺様、どこのお宮様と云う様に神様仏様と名のつく所には、もう何処にでもお参りになられた。とにかく拝むことがお好きであったと云う事です。
しかもそれは教えられたり勧められたりするものではなくて、自分の心からそうせずにはおられないと云うものを持っておられたと云う事です。
そこから教祖様の御信心が開けておられますから、まあ私共はそこのところから先ずおかげを受けて行かなければならん。
ですから信心が好きになると云うか、拝むことが楽しくなって来ると云うか、云うならば云われんでも頼まれなくてもそういう信心をしなければおられない。
信心になることが有難いと云うところ迄がです、私は身凌ぎが出来る前提だと思うです。だからお互いの場合はそこら辺のところじゃないでしょうか。
やはり一辺に身凌ぎが出来ると云った事がある筈は有りません。そこでお互いの信心を自問自答してみますとです、果して自分の信心はお参りすることが好きなのか、お話を頂くことが有難い、誰に言われんでも、やはりお参りせずにはおられんと云うところを辿っておられる方ならば、まず身凌ぎの出来れる信心の間違いの無い前提のところを通っておられるんだと云うことになります。
勿論お話を聞いて有難いと云うことはお話を聞くそれが血に肉になって行くと云うことが楽しゅうなってくる。日常生活が変わって来る、思うことが考えることが全然変わって来る。物の見方考え方が変わって来る。そうなって来る時にです、もう信心は止められるもんじゃないと私は思うのです。
今朝あたり御神前に出らして頂いて、先ずあのお湿りの音をじーっと頂いておりますと、もう尽きることが無い、限りが無い程に、只有難い。もう訳はない。只有難いと云うお礼を繰り返すばかり。 そのお礼を繰り返させて頂いておると、お礼の申し上げることの次から次と多い事。深い広い意味に於ての有難うございます、有難うございますが言えれる思いが致します。限りが無い。
それはね、丁度乾いておる土地に水を蒔くような感じで私の唱える有難うございますが神様の方へ吸い込んでいく思いがする。
信心もね、そういう例えば思いがさせて頂けるようになったらもう或意味でしめたもの。自分の思いが願いが神様の、云うならば乾いた土地に水が吸い込んで行くように神様がお受け下さるのが実感として感じられる。 これはだから、詫びると云うことでもいいでしょう。問題は神様と交流すると云うお詫びならお詫びが、神様がいちいち合点をしてそれを聞き届けて下さると云う様な思い、いわゆる神様が通う、そこからおかげが交流して来ると私は思うです。
有難いとお礼を申し上げる。その有難いとお礼を申し上げるその心が、神様に通う。それが又こちらの方にも通うて来る。それがおかげのルートになる。
どんなに素晴らしい名文句で御祈念の言葉を並べましても、神様
が受けて下さらなければおかげにならん。
だからそんならお詫びだけでもよし、お礼だけでもよい。問題は心から神様に通うと云うその事が大事なんです。その為にやはりいつも自分の心を検討し改めておきませんとそういう様に、もう神様にじかに通うような心が生まれてこない。
昨夜は善導寺の原さん所の毎年恒例の謝恩祭を私が奉仕させて頂きました。今度の原さん所の謝恩祭の特異性と云うか変わったところ、今迄とは変わっておったと云う、もう私はいつも同じじゃ駄目だと思うです。もう信心が生きて居るのですから成長しておるのですから、もうやはりその年々に変わっておらなければ駄目だと思うのです。
それはどういう事であったかと云うと、今度のお祭りはもう徹頭徹尾あちらの若夫婦が中心になってのお祭りであったと云うことです。有難いですね。いわゆるもう見事に信心の継承が出来ておる。信心の受渡しが。
ここんところ毎日原さんがそれをお祭りの準備に、普通ならばもうそれこそ、私共夫婦が一生懸命ならなきゃならんのだけれども、もう前々からのお掃除からもう万事万端に心を入れて、それこそ夫婦の者が一生懸命やってくれますと、もう私はじっとしとっていい。と、云うようなお礼お届けがあっておりましたが、あちらへ参りましてから本当にそれを私も感じました。
もう今度のお祭りの一番これはいつの場合でも、その時のお祭りが一番有難いお祭りでなからにゃならんのですけれども、そうい意味に於てです、若夫婦が中心になってのお祭りであった。それはそんなら親達がしておった時よりも、まあ何とはなしにです、お参りもちょっと少なかったし、神餞でも親達が一生懸命やっておったそれとは違う筈だ。
けれどもね、実に楽しみのある謝恩祭であったと云うことです。これから若夫婦の信心が成長して行くに従って、もう云うならわりわり云うごたるお祭が段々出来るようになるだろうと思うのです。 もうこれは本当に有難いことです。五つの願いの中にあります、いわゆる子孫繁盛家繁盛と云うことを毎日繰り返しお互い願っておられる事でしょうけれども、この内容は信心の継承と云うことにあるのです。
どんなに子孫繁盛を願うても、例えばそれは成程形の上に於いては繁盛して行くかも知れませんけれども、信心の受渡しが出来ずして繁盛して行くならこれは危ないものです。
ところがガッチリと信心の受渡しが出来て行くと云うことが、それはもう取りも直さず子孫繁盛の約束をされたも同じです。親の代から子の代に、しかも息子達夫婦の者がです、信心をガッチリと受け止めている。
私は今日はここんところの身凌ぎが出来る信心と今日頂いたが、身凌ぎの出来る信心の前提がです、もう若夫婦の上に出来ておると云うことは私は有難いと思うて、そこんところを今日は聞いて頂きたいと思う。
毎朝の御祈念に今お父さんの具合いが悪いから、病気しとりますからですけれども、親子二夫婦揃うて毎日もう永い間のお参りである。昌一郎さん達御夫婦がお日参される様になってからも、もうやっぱり大分になるでしょうか。
そして最近はもう云うなら誰に云われなくとも勧められなくともそれが出来ておる。いやもう信心に最近の御理解を借りると、飛び立つ思いで参ってきておると云うことです。若夫婦が・・・
例えば自動車が駐車場に着くともう、飛び降りんばかりにとにかく走ってお広前へ駆け込んでくるというようなです、それこそ飛び立つ思いで、さあ今日の御祈念が今日の御理解はどういう御理解じゃろうかと云ったような事にです、もう信心の御教えが血に肉になっていきよるとが自分で感じれれる。と云うものを、これはお取次をさせて頂く私も感ずる。
その事がそんなら御両親のいつも最近のお礼と云やそのことばかり、自分の息子達夫婦が本当に真剣に信心を頂いて呉れると云うこと。もうそれこそ家の中が一変する程に空気が変わってきた。一家を挙げてのしかもそうして生き生きとして、参らんの、参って呉んのと云うて参って来るのじゃない。
ですからもう、これならば何処を通っておっても大丈夫と云うことになる。いわゆる身凌ぎの出来れる信心の前提を見事にいわゆるそういう信心の継承が出来ておると云うこと。
しかもそういう信心の有難さが云うなら年に一回の謝恩祭と云う、あらゆる様々の条件がそこに揃ってきた。そしてあのお祭りであると云うところに昨日の原さんところのお祭りの意義が在ったと思うです。お父さんももう本当に死んだ方がままと云う位に「きつい」病気だった。 神様にお願いして医者にもかかった。薬も頂いてその時に薬が効くとか注射が効くと云うので、医者に掛かるとじゃない、安心がいく様にと云うことであった。
お医者さんにところが自分達が例えば、喘息なら喘息と思いこうじゃった。それがそうではなくて、お医者さんの答は楽観できる様な事であった。もう本当に安心が出来た。私は・・・・それまでは良いのですけどね、あの医者にかかったら注射を打ったりしてから、ああこの注射が効いた、この薬が効いたと云う様になったら、もうおしまいです。
それは効きもしましょうけれども、神様のおかげで効いたと云うものがなからなければ、もう信心のおかげと云うものは、もうそれこそ、もうかっぱり差引かれる感じです。 そういう意味で私共は本当に神様一途一本で行かなければ危ない。だからそこが出来たらです、昨日はその事を原さんところで聞いて頂いたんですけど、お父さんがこんと死ぬか生きるかと云う病気を患った。そしてその中に段々おかげを頂いてとにかく健康であるとの日頃の喜びが今度ばっかりはいよいよ分かったと云う時に、平穏無事であると云うときに、いよいよ信心が手篤うなって行くと云うものが頂かなかったら値打はなか。只おかげでよくなったと云うだけでは、けど私はあちらへ行ってからここ二、三日起きて御用は出来んでも気分ようしとられるし、第一食事がいけなかったのが食事が美味しゅうなったと云う。
おかげ頂いたですなあ、謝恩祭前に何日か前のように、例えば本当に死んだ方がましと云うようにきつかったりあったり、例えばお祭りを仕えて居るのに横に病人を寝せておったんでは謝恩祭が謝恩祭にならんのだけれども、おかげを頂いて床上げも出来た。起きとっても佐程きついことはない。御飯も美味しゅうなったと、それを神様へお礼の一つの対照にもなることですから、有難いなあと云うて、はあもうおかげで大体ここ二、三日御飯がいけん、もうきつうしてきつうしてお医者さんの薬を飲むとよけいに御飯がいけんごつなる。それでお医者さんに云いました。先生御飯のいけるごたる薬ばいっちょ盛って下さいと言いましたけん、じゃろうそれから薬が変わりまして、それから御飯がいけるごとなりました。
私はもうそれを聞いてがっかりするんですよ。ね、実際はその薬が変わったから御飯がいけるごとなったと云いよる。だからおかげで起きられる様になったと云いよる。
それはもう微妙なこと、例えば謝恩祭と云うことは、前々から分かっとることですから、神様の本当に素晴らしい演出の中にそのおかげはそうでありましても、問題は銘々の受け止め方なんです。
信心とはおかげを頂いてと云う受け止め方で、そのおかげが五にもなりゃ十にもなりゃ百にもなるのです。
御飯がいけんいけん、御飯がいける薬を下さいと云えば薬が変わったおかげで、御飯がいけるごとなった。起きられるごとなったと、神様はどこにきかやって仕舞うとると云う感じじゃないですか。
私はね、そう云えとかそう思えとか云うのじゃないです。もういよいよ信心が分からせて頂いたら、注射一本例えば、薬の一服の中にです、それは神の深い深い御神意御神慮のあってからの事なんだ。ひっくるめておかげと言えれるおかげを頂いた時にです、云うならば心に引っかかることもない。医者にもかかり薬を頂いても有難いんだけれども、神様にもお願いしとる、お医者さんにもお願いしとる。やっぱりおかげも頂いとりゃ薬も効く。こういう頂方ではもう、信心とはもう身凌ぎの出来る信心とは言えんのです。
例えば謝恩と云うことでもです、本当にこの度ばかりは亡い命を、いわば命拾いをする程しのおかげを頂きました。同時に苦しい何十日間でありましたけれども、おかげで健康であた時のお礼の足りなかったこと、お詫びの足りなかったこと、健康であること、とてもとても只事ではない。有難さと云うものが身にしみて分かりましたと云うことになって来なければ病気した値打がないではない。助けて貰った意義が浅いものになって来るです。
只おかげを頂いたと云うだけでは、ね。
身凌ぎとは本当におかげをおかげと感じ取らせて頂けれるだけの信心を私は身凌ぎの出来る信心だと思う。いわば身凌ぎの出来る前提と云うのが本当でしょう。
昨日の朝のお届けにお母さんの方はお届けしました。
もう親先生、今度の謝恩祭に主人がこうやって起きてお礼申し上げられると云うことが本当にそれはそれは神様のお計らいには恐れ入って仕舞う。おかげを頂きましたと家内はそう云うとる。
お父さんが方は、はあ薬が効いてと、おかげで私が云うたけんで薬が変わった。そしたらそれから御飯がいけるごとなったとこう云うとる。私はそういう事はお母さんから聞きませんでした。
あちらへ行ってから、ああ起きられるごとなってよかったのと云うて、それがおかげで薬が効いちから、とてもそれからが御飯のいけるごとなったとこう云う。私はもう行きはなにですね、もうぐらりしたです。
本当に親先生おかげで今日は、今度の謝恩祭が一番有難い謝恩祭として仕えられると思いますと、云う様な事を聞くと思うとった。 はいもう薬が効いちから、おかげで起きられるごとなった、おかげで御飯が美味しゅうなった。
恐らく心の中にです、おかげを頂いてと云う実感があるでありましょうけれども、心に思うておる言葉が必ず言葉になって出るのですよ。
久留米の石橋先生じゃないけれども、あんたんところの息子は馬鹿じゃなと、例えば云われる事があっても、そういう感じの息子だから、それを見ると度にそれを修行と思い、修心と云う心で、おかげで信心が出来ると云うことであるから、顔色いっちょ変わることではなかった。
親先生おかげで信心が出来ますと仰った。考えてから云う事じゃないです。心にあるからその場に出るのだ。どんなに考えても有難い。本当に有難い。おかげを頂いてと云うのが本当にあるならです、それが口をついて出てこなければならん筈です。こころに在るのだから。
けれどもあん薬は効いたち、これがいっぱいだから口から先に出て来るのじゃ、ね。だからそういう事だから身凌ぎの出来る信心とは、それこそ程遠いことなのです。
おかげと思い切らんでも、それをおかげおかげと思う精進をおかげと思い切らんでもそれをおかげおかげと思う精進を出させて頂くことが、先ずはおかげを頂くことだと思います。
昨日あちらでお話をさせて頂いて事ですけれども、私はいつの時だったですか、あの色紙を書かせて貰ったことを思うのですけれども、私が書いた色紙が額に入れて上げてあります。
それに 豊かな心の世界に住んでおる私は、 豊かなものの世界にも住んでおる。と、書いてあります。
豊かな心の世界に住んでいる私は、 これは私自身の事を書いておると思うのです。
豊かな心の世界に住んでいる私は、豊かなものの世界にも住んで居ると、云うことを昨日私聞いて頂いたと。
昨日私は行きがけにこういう事を頂いておった。
腹立てず、愚痴を言わず、欲を言わず。こういうものがその人に備わった時には、その人はもうこの世で極楽に行っておると云うことです。この世で極楽と云うのは、先ず腹を立てずに済む私、愚痴を言わんで済む私、欲を言わんで済む私、もうそこには極楽があるだけです。これがいわば、豊かな心の世界に住むと云うことなんです。だからそういう豊かな心の世界に住むと云うことなのです。だからそういう豊かな世界に住んだ時に、もう豊かな、いわば生活が保証されます。
豊かなものの世界に住むことが出来ます。この事が昨日、原さんところの話の芯でありました。お互いがそういう信心を目指して貰う。 腹を立てず、愚痴を言わず、欲をせんで済む私にならせて頂いた時に、この世極楽と云う世界が開けて来る。そういう姿を本当の身凌ぎが出来た人の姿だと思うです。
身凌ぎの出来る信心とは、そういう事が心から自分の身に付いてきた。血肉となったと云うときに初めて身凌ぎが出来たと云うのじゃないでしょうか。
お互い身凌ぎの出来る信心を目指さねばいけない。ここへ参ってきてお話を頂けれるそういう信心、そういう身凌ぎが出来る信心する為には、こういう信心をしなければ、こういう生き方にならねばいけないと云うことになる。教えて頂いとるのだ。
だからそれが、血肉にもなって来るときに、それこそ腹が立つ段じゃない。愚痴どん云う段じゃない。とてもとても有難い、有難い。 欲をせんと云うことは、何も彼もみんなあの、捨ててかかると云うたものじゃない。何でも彼でもお供えしてしまわにゃならんと云う意味じゃない。人に何でもやり好きの人がありますね、あげんとは欲のないのじゃないです。私だんは、もう考えた上にも考えなければ、どんな惜しくないものでも人には物はやらない。それをてんで迷惑したっちゃやる人がある。そげんとが欲が無いと云うのじゃない。
欲が無いと云うことはです、おかげを頂いて沢山の財産でも出来る沢山の物の中に住むことが出来る。けれども一切が神様の御物だと分かると云うことなんだ。
昨日私はその事を頂いたときに、私の心眼にですね、何かお金がですね、ずらっとこう、走ぐっちょするときに並ぶでしょう、オニュアマーク、ゲツ、セッ、と云う様なね、ヨーイ ドンです、いわゆるヨーイ ドンと云うときにしている格好に感ずるんですよ。
お金でも何でも貯めたが上に貯めて、絶対に出さんというごとあるとは、もう死んどるとです。
同じ貯めてもです、これは神様の御物ですから、神様がお使いになるときには、何時でももうそれこそ、よーいどんを言われたら何時でも飛び出さる様に身構えしとる。物であったり金であったりするのであって、そのものが生きておると云うことになるのですよ。 欲をすてると云うことは、云うならば一切が神様の御物だと分かった時が欲を捨てたときの姿なんです。だからどんどんやってお供えしたり、どんどん人に物をやったりするのが欲が無いのではない。そういのはかえって欲の深かつ、もうやると又入って来ると思うけんやりよる。だから欲と云うものはそんなものじゃない。私どんのごと、絶対もう出さん、もうめったのことじゃ金てん使わん。物でも何でも大事にしてから、もうそれこそ脇からみるとしみったれのごとあるけれども、そういう大事にしとるのが破れたっちゃ、心の中に未練が残らない。例えばいよいよ使わんならんときには、もうそれこそ身の皮剥いで出すことすらが生き生きとして有難く放せると云うこと。それが神様が喜んで下さることになら、云うなら金でも物でも一線上に構えとる、いつでもどこに飛び出せる。号令一下飛び出せれる準備が出来ておると云うことは、一切が神様の御物、私の物としては何にもないと分かったときに、初めて欲をせずと云うことになるのです。欲が無いということになるのです。
だからその見解を間違えてはなりません。
だからおかげを頂いて沢山の貯金でも出来る様にならなければ出来ません。そしていよいよこの世極楽と云う、いわゆる腹立てず、愚痴云わず、欲をせずのおかげが身に付いて来る。そこに豊かな心の世界がある。その豊かな心の世界には、豊かな物の世界にも住むことの出来れる約束があるのですから、いよいよそういう意味に於いての身凌ぎの出来れる信心が頂きたいですね。どうぞ。